創作版画専門店 輝 開 の ご 紹 介 日本経済新聞 文化欄掲載記事(平成7年10月26日付)より

吉 留 直 輝
一人ですべて制作する、自画自刻自摺の版画が創作版画である。
この名称は 明治末期より 第二次世界大戦直後の版画に使用される。
当時版画は半画と揶揄され半人前の扱いを受けて全くと言って
いいほど一般には売れなかった。 「SOSAKU-HANGA」で世界中に
通じる現代とは、その創作環境に格段の差があった。
しかしながらこのことがかえって彼らの芸術家本来の姿勢を守った。
他人の目を意識することもなく、 売れる作品を制作する必要もなく
作家の奥底に潜む魂の欲するまま率直に、あるがままに自己を表出
できた。 そのため、平明で素朴な表現は鑑賞者の心に、直接しみる
ものが多い。
私と創作版画の出会いは20年ほど前のことだ。 時間つぶしに立
ち寄った銀座のある画廊で、唯一私の心に飛び込んできた風景画が
あった。色は淡くのんびりした湾の春景色。 壁面いっぱいに埋め尽
くしていた他の油彩画を完全に圧している。 思わず「アッ」と声が
漏れた。これが畦地梅太郎の昭和11年作「八幡浜栗の浦」と題する
創作版画との出会いの一瞬だった。
それまでは、絵画に対し鈍感な男と自認していたので、この震えるような心の体験は、新鮮だった。ほかに趣味のなか
った私は以後私の気質に合う版画を買い求め続けた。のめり込むように創作版画を追い求める人生の始まりだった。
こうして、これまで勤めた出版関係の会社を辞めて8年前に創作版画店を開いた。 趣味を仕事にしてしまったので
業活動とは別にして何か楽しむ分野をと、埋もれた創作版画家を掘り起こそうと思った。
昭和63年ごろ、ある版画家から手渡された案内状に、忘れら
れた創作版画家の名前があった。「師 永礼孝二」と。さっそく、
はやる心を抑えてご遺族のところへ。その率直で明るく楽しくな
る作風を目のあたりにした私は、興奮のあまり大声で感嘆の言葉
をしゃべりまくった。 永礼(ながれ)は、明治34年津山市生まれ。
日本版画協会第二回展より出品を続ける。 版画誌「刀の跡」同人。
ご遺族のところで見つけた作品五十数点は東京の町田市立国際版画美術館に収蔵してもらった。無名の作家でも良
い作品ならば収蔵する美術館の存在には、感銘を受けたし、今後の励みにもなった。
私は「版ニュース」というパンフレットを発行している。
No.2で特集した平川清蔵を追跡した時のことは印象深い。この
版画家は優れた作品を残しているが、経歴や墓の在りかなども
皆目不明。そんな状況に不満を感じた私は、自分で調査を開始
したが、大きな厚い壁に阻まれ、途方に暮れてしまった。
そんな時、 版画関係者からもらった当時の展覧会目録をめくっ
ていると、ヒラリと一枚の紙片が落ちた。なんと、これが平川
本人の手書きの名刺。この名刺に力づけられて再調査に乗り出
した私は、墓は分からずじまいながら、年譜を作成することが
でき『小品版画集』の展覧会を催した。
平川は初期の木口木版画の貴重な作家明治29年に尾道市
に生まれ第二回の日本創作版画協会展(大正9年)から日本
版画協会、春陽会、帝展にも出品している。 昭和初期には
「牛と男」「町の世話役」など社会生活をテーマにした作品
群があるが昭和10年の「裸婦」を最後にその後の作品は知
られていない。
また、 日本版画会の初期会員 調査の手伝いをしているう
ちに後藤忠光という作家が興味を引いた。 大正期の前衛美術、
未来派に関係しある創作版画の大家の弟子でもあったらしい。
こういう経歴を知ると、どんな作品なのか夢が膨らみ、眠れな
くなる。さっそくご遺族の自宅に伺ってみたが、夢見た版画に
は出会えなかった。しかしあきらめずに粘る。 と今までに
見たこともない小さな薄い本が出てきた。 これが 新発見の版
画誌『青美』との巡り合いだった。 大正10年後藤忠光 編集発
行の「詩と版画」の作品集。経歴不明のウクライナの版画家ル
バルスキーのリノカットも挿入したこの版画誌は当時の青年
美術家たちの並々ならぬ意欲と熱意を伝えて私たちに迫る。 後藤は明治39年に秋田市の漢学者の家に生まれた。
画業の道を進み未来派第一回展、そして第四回 日本創作版画協会展にも 未来派的版画を出品している。 (なお、
この新発見の版画誌『青美』は日本未来派の、そしてまた 創作版画の貴重な資料として 町田市立国際版画美術館
に収蔵され、多くの創作版画展に出品されている)
無名の版画家を発掘することは自分の目で新しい美を発見し改めて評価できるところがおもしろい好きで始
めた版画屋が、いつのまにか商売を離れて版画史にわずかながら貢献できたり、ご遺族の方から感謝されたりで、
望外の喜びにありがたさもひとしおであるもし埋もれた創作版画家をご存じの方はぜひともお教えいただきたい。
(よしとめ・なおてる)
(以上、日本経済新聞 掲載記事より抜粋)
埋もれた創作版画家 情報募集中
下記の創作版画家の御遺族・作品資料を捜しています。「版ニュース」で特集できましたら幸せです。
御遺族並びにご存じの方、ぜひ御一報下さい。
  
  坂口右左視 明治28年(1895年)ー昭和12年(1937年) 佐賀県生れ。
  清水孝一 明治28年(1895年) 東京生れ。本郷台町で家業の額縁屋を営んでいた。
  村山観光 明治34年(1901年)ー昭和11年(1936年) 福岡市生れ。
  石原寿市 大阪に生れる。郷里は久留米市。
  野崎新右衛門 明治44年(1911年) 三重県 松坂生れ。 石版を制作。
  成田玉泉 昭和50年(1975年)の住所 静岡県 引佐郡 細江町 中川 6445-19
戦前 北海道で創作版画の普及に力を注いだ。娘さんは浜松市で医師をな
さっているという。昭和47年(1972年)の住所 浜松市三方原町3453
  荒井東留 (末木東留) 昭和12年(1937年)は荒井姓、昭和13年(1938年)には末木姓。
昭和13年の住所 (現) 江東区毛利2丁目8番1〜11号
  松尾醇一郎 明治34年(1901年)ー昭和20年(1945年) 京都府 舞鶴生れ。
昭和19年(1944年)の住所 (現)目黒区目黒本町3丁目7.8.9.10.12.15番
4丁目1番1号

調査報告-1
松尾醇一郎は高尾山近くの景信山(727m)にある景信小屋に昭和19〜20年の間、着の身着の儘の姿
で疎開していたことが分りました。小屋の所有者 青木公男さん(76)からお聞きしました。
当時戦時中でしたので、 景信小屋は営業停止状態でした。 松尾はその小屋を借り受け、一人で住み
付きました。青木公男さん(当時16) は"まこ"という子犬を抱いて食料や水を求めて時たま里に下りて
きた松尾の飄々とした姿を今でも鮮明に覚えています。終戦後すぐ "まこ"を託し小屋から出て行った
とのことです。残念なことに作品資料は一点もありませんでした。
小野忠重は「原色 浮世絵大百科事典 第10巻」の松尾醇一郎の項に次のように書いています。
「..... 太平洋戦争時に三峰山中にこもり消息を絶つ(恩地孝四郎-日本の現代版画)ともいわれるが、
親交のあった畑野織蔵によると終戦の年11月相模湖畔で枯木を燃し大豆を空缶で煮て食べている
憔悴した姿を見て、近くの疎開先にさそったが返事なく、翌朝にはその姿がなかったという。」
景信小屋に住んでいたことはこの話と一致します。 三峰山と景信山は稜線でつながっていますし、その
先に相模湖が。
なお景信小屋に行くにはJR高尾駅北口から小仏行きバス。220円。終点小仏から2.8kmで小仏峠。
また1.2km歩いて景信小屋。

調査報告-2
住 友雄 1911年 岐阜県高山市に生れる。 
戦前 造形版画協会展 国展 日本版画協会展に出品する。
戦後 開拓地へ入植した為、仕事に追われ版画制作を断念する。
2000年 永眠
版画は独学。最初、仏像を彫るノミで版を制作したとのことです。
作品は写真版で7点確認しましたが、残念なことに1点もオリジナル版画との出会いはありません
でした。
創作版画専門店 輝 開
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